ドレミの重みを知らない日本人。音楽は宇宙の言語だという認識でピアノを弾く。

日本人にとっては、降って湧いたように定着した食肉文化。その弊害について。

最近ふと、食物連鎖について深く考えるようになりました。

私たちは当たり前のように毎日、野菜や肉、魚などを食していますが、彼らは命を得る前から人間に食べられるものとして存在することが決まっています。(魚に至っては、養殖でなければそうとは限りませんが。)

野菜は、畑に綺麗に陳列するようにずらりと植えられ、家畜も同様、なるべく一度に多く食肉が得られるようにと最大限にスペースを生かしながら柵に閉じ込められて、柔らかくて美味しい食肉になるがために飼料を与えられ、起床消灯時間も管理され、時期が来れば屠殺されて解体されて、市場に運送されて値段がつけられ、スーパー等でパッキングされて私たちの家庭で調理されて人間の胃袋で消化されるか、もしくは食べ残されて廃棄される…。

もし、自分自身に彼らの運命を当てはめてみたら、誰だってそんなのは絶対に嫌だと思うはず。自分は同じ目に会いたくないくせに、他の生き物にはそれを強いている。これって同じ地球に存在する生命としてどうなんだろう…?と今更ながら考え込んでしまったわけです。

書籍名は忘れましたが、昨日読んだ本の中で、以下のような内容の、実に興味深いことが書いてありました。

“もともと肉を食べる習慣のなかった日本人は、家畜を家族のように可愛がり、成長後に殺して食するという習慣を経ずに、現在の食肉文化に突入してしまった“

なるほどなと思いました。確かに私たち日本人は、スーパーでパッキングされ売られている食肉と、生きている家畜とを区別して認識しています。家畜も、どんな環境でどのように育てられているか、どんな目的で何を餌として与えられているのか、そしてどのように屠殺されているのか知る由もないし、そもそも知りたい、知らなくてはならないと感じる人は少ないのではないでしょうか。お金のため、人間が生き延びるため、人間の食欲という果てしない欲求のために生かされている動物たち。

命の尊厳というものは、実際に生死を目の当たりにし、共に生活しないことには実感の伴った理解には及びません。だから、時として平気で食べ物を残し、残飯となった彼らの行方まで意識を向けることさえ忘れてしまう。私も含めですが、命に対する尊厳と感謝の念を持つことなく、ただ美味しいか美味しくないかという感覚のみで食べているなんて、何とも罪深いことのように思えてしまいます。

私は「大草原の小さな家」を読んで育ちました。
家畜としての動物との、綺麗事では済まさない、命と真摯に向き合う姿が、物語のあちこちに描かれています。

「いただきます」「ご馳走様でした」の挨拶は、命を頂きます、命を頂きました、そのおかげで私たちは今もこれからも生かされています、感謝しますという意味があるのだそうです。

この挨拶を唱えることで、私たちに食される生き物の霊が浄化されるのだそうです。

このような、家畜を育て食べるという生活習慣がなかった日本だからこそ、家畜を育て生肉にし、食すという一連の流れを細かく分業化し、それぞれの仕事を違う人間が受け持ち、実際に食べるだけの人が大多数という現状が、「命をいただく」という認識をもつことができない日本人を生み出した原因なのではと思います。

もっと言うと、同じように、親御さんに愛され育った子供たちのその過程や想いを知ることなく、ある日からピアノを教える私の立場も似たようなものかも知れません。さまざまな物事の背景は、他者には全てを知ることは不可能なのですから。

食肉文化と同じく、日本に突如普及した西洋音楽の共通点とは。

なぜまた、ピアノ教室のブログに食肉文化の話を持ち出したのかというと、全く同じ状況が西洋音楽でも起こっているのでは?とはたと気付いたからです。

西洋音楽も、ドレミの起源は詩(聖歌)でした。詩は神の御言葉。すなわち宇宙の言語です。

「CDでわかるみんなの楽典」 
髙田美佐子著 ナツメ社より

ですが、私たち日本人の多くは、ドレミは「ド」「レ」「ミ」という単なる音の呼び名としての認識しか持っていないのではないでしょうか。それぞれの音に定められた周波数(音の高さ)は、何も意味なく偶然に決めたものではありません。音の元となる数(周波数)も、もまた宇宙の言語だからです。そして、宇宙は命あるすべてのもの、すなわち私たち自身です。

それぞれの音には、共鳴する惑星があり、そして、私たちの体内の臓器とも繋がっています。そしてドレミの元となった詩の言葉には言霊が存在します。

このような壮大で、それでいてあまりに身近な(というより、むしろ私たち自身である)音を駆使し、美の黄金比に従って整然と並べられた、神、すなわち宇宙の言葉を旋律で紡ぎ、ハーモニーと共にこの世の歓喜や哀しみ、愛の美しさ虚しさなどを歌い上げているのが西洋音楽なのです。そして哀しいかな、時として音楽は宗教や政治、権力を誇示し、民衆への支配を確かなものとするために敢えて使用されたことも数知れずありました。と同時に、長い人類の歴史を生きてきた多くの人間たちの癒しや慰め、喜びの象徴として高らかに奏でられてきたのも音楽です。

このような背景を携えて西洋音楽は日本へ入ってきたのですが、この深さ、重さまでをもどのくらいの日本人が実感として感じられているのだろうか?と自分自身も振り返りながらふと疑問に思ったわけです。

それならば、西洋音楽や世界の歴史を学ぶということもできますが、実感の伴わない頭だけの理解では、音楽を奏でたときに自分の心の琴線には触れません。自分自身の心を打たない演奏は、それを聴く人々の心には全く響くはずもありません。

ですが、全く同じ経験をすることはできなくても、似たような思いや体験は、私たちも経験済みなはずです。音楽は声楽を除き、言語を伴わずにその感情を、思いを、意志を多くの人の心や魂にダイレクトに訴えることができます。音楽を耳にして心がそっと動いた時に、自分の心の揺れにじっくりと意識を向けて味わうことで、共鳴した自分の感情の出どころや、なぜ心が動いたのかその確かな意味に気づくことができます。

歴史と背景を知らない私たちだからこそ、このような知ろう、感じ取ろうという気持ちが大切なのだと私は考えています。

同じ体験はせずとも、自分の中に必ず共感できる種は持っている。
種の有りかに気づき、知りたいという欲求という名の水を撒き、芽を育てれば、必ず同じ想いに達するだけの太い幹となり、枝葉を広げ、その歴史や人々の想いに触れるだろう。

その想いを持って、私は音楽と真摯に向き合いたいと願っています。

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2020.10.13

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