My Piano Story

Contents

私がピアノを通して学んだこと

ピアノさん、こんにちは♪

私は昭和56年4月に生まれました。

生まれた時にはすでにアプライトピアノがリビングに置いてありました。
私が生まれた年に、母が購入したそうです。

もしかしたら、母に「ピアノを生まれてくるまでに買っておいてね♪」とお腹の中でお願いしていたのかもしれません。

美しいものやおしゃれが大好きで、こだわりの強かった母は、ピアノもリビングの外観を損なわないものを…と、艶のかかったマホガニーのピアノを選んだようです。

発表会本番前に撮影。
やる気満々でご満悦の様子、笑

まず初めに母がピアノを習い、その次に兄が習い始めたため、私は、生まれた時から母や兄のピアノの音色を聴いて育ちました。

そして、3歳になった時、大好きな兄にいつも金魚の糞のようについて回っていたわたしは、兄と同様、自分もピアノを習うものと決めていたようで、

「こっこちゃんもピアノならうの!!」

注:当時「ようこ」と発音できず、「こっこ」と自分のことを呼んでいました

と自分から言ったそうです。(全く覚えていません、笑)


【コラム】昭和の時代の集合無意識?

写真の中の

♡アプライトピアノ
♡紙粘土で出来た、手づくりのお人形の飾り
♡手編みのレース
♡あかちゃんコアラを抱っこしている2体のコアラのぬいぐるみ

そして、写真には写ってないけれど。
♡手作りの布のお人形(しかも部屋のあちこちに何体もある)

昭和時代のピアノを置いている家庭の「あるある」な光景です。
どこのお家にお邪魔しても、「あれ~、うちと同じ!」ものが「同じ」場所になぜか置いてあるんですよね、笑。
何でなんでしょう??不思議です…。

生徒さんのママとも、よくこの話題で盛り上がってます♪


はじめてのピアノの発表会

母の手づくりのドレスを着て。おしゃまな性格でした。

のびのびと育てられた私は、はじめての発表会でも自信満々。

当時、ふっくらしていた私は、ピアノと椅子の間に挟まり、身動きできなくなるというハプニングもありました、笑。

(司会のお姉さんが、慌てて助けに来てくれるシーンも)

はじめての発表会。兄と連弾をしました。

途中、自分のせいで間違えて止まっても、

「おにいちゃん、なんであたしにあわせてひいてくれないの?」

と自分のことは棚に上げて、必死でたどたどしい妹のピアノに合わせて弾いてくれている兄にむかって、責めるようなまなざしを向けるなど、今思えば

なんともずうずうしい妹

でした。

今に通じる何かを感じます…。

バレエで身体表現を学び、ピアノでの音の表現へとつなげていった子供時代

幼稚園に上がった頃、近所のバレエ教室に通い始めました。

基礎をみっちりやり、将来のバレリーナを育てるというよりは、みんなでわいわい楽しくやるようなゆる~いお教室でした。

もともと音楽は大好きですし、先生もあまり煩く注意なさる方ではなかったため、本当に自由にのびのびと踊ることができました。週に2度のレッスンが楽しみで仕方がなかったのを覚えています。

はじけんばかりのこの演技、笑。
衣装のデザイン担当は母でした。
母娘そろって「独特」…!

どんな風に自分仕様に振り付けをアレンジしたら、もっと楽しく、もっと音楽に乗って素敵に踊れるのかな…と常に考えているような子どもでした。

曲が流れると、無我夢中で好きなようにくるくると踊るのが大好きでした。そうこうするうちに、ピアノも、弾きながら、「ここはこんな風に軽やかな音を出した方が、この曲に合ってて素敵だな」などと、自分で考え、色々と試しながら弾くことの楽しさを発見していきました。


【コラム】お子さんの「ピアノが大好き♥」な気持ちを育ててあげるために、お母さんができること

母が、私に行った子育てとは…。(ピアノ編)

・毎日必ず「何時から何時まで」練習すると決めて

・その時間内でしかピアノを触らせない
 →「いつでも弾いていいよ」だと習慣化しません。

・子どもが練習に集中できる環境を整える
 →私の場合、小さいうちはリビングにピアノを置いていました。ピアノを弾いている間は、他の家族はもちろんテレビを観たりゲームをしたりはしていません。

・母自身がまずピアノを毎日触ることで、「ピアノが鳴っている」おうち環境を整えた上で、

・子どもたちにも習わせる(が無理強いはしない)
 →兄は途中でピアノを辞めました。

・家でも普段から音楽を流し、演奏会にも積極的に連れていく
 →そのために、普段からしつけには厳しかったです。

そして、何より大事なのは…
「練習しなさいっ‼‼‼」と一切言わない ことです、笑。
「18時になったらピアノの時間」という習慣が当たり前になっていました。
ちなみに、「勉強しなさい」ともいわれたことはありません。

自主性は、習慣づけのお手伝いをきちんと大人がしてあげた上で育つもの。残念ながら自然に身に付きません。練習しないのは、練習する習慣を身に付けさせたり、環境を整えたりといったサポートが不足しているのかもしれませんね。

でも、大丈夫。今からでも遅くはありません。

練習を習慣化するためにできることを、 お家の方のお話しを伺いながら、お子さんにあったご家庭での練習内容や練習方法、練習時間を一緒に考えていきましょう。

「君は、ピアニストになりなさい」という言葉の意味

・幼稚園のお遊戯会
・小学校の普段の授業中の発表
・お楽しみ会の出し物
・学習発表会
・運動会でのダンス
・バレエの発表会
・ピアノの発表会
・ピアノのコンクール

こういった「発表し、表現すること」が大好きでした。上手にできるかどうかという結果は、実は自分にとってあまり意味はなく、ただ単に人前で何かを自由に表現することがたまらなく楽しかったのです。

常に頭にあるのは、「明日は今よりもっと素敵な自分になれているに違いない」ということ。今よりも何倍も何十倍も素敵になっている自分を妄想することが、たまらなく好きでした。

それってある意味ナルシスト??

ですね…笑。

それは今もかわってないのかも。


【コラム】妄想のすゝめ

「想像」ではなく、「妄想」です、笑。
「妄想」するときは、ありとあらゆる無意識の制限を外すことができます。

もし、私がお姫様に生まれていたら… とか、
もし、自分が大好きな小説の主人公だったら… とか、

何でもいいんです。(一見くだらなくても!)

妄想を繰り返すことで、だんだんそれが本当のことのように思えてきます。
そして、実際に現実化しそうなチャンスが訪れた時、躊躇なく新しいことにチャレンジすることができるんです。

ちなみに私は、お散歩中や寝る前、入浴中などによく妄想タイムを楽しんでいます。現実化したことも沢山ありますし、まだ夢のままのものもありますが、そのうちきっと夢が叶うと信じて毎日を楽しく過ごしています。

母と「エンターテイナー」を連弾しました。
(ここでも母お手製ワンピース着用♬)

母娘でいっぱい喧嘩したな~、笑。

当時のピアノの先生の話によれば、
「最初、テンポが二人とも合わなくってねー。
陽子ちゃんがどんどん速くなってくのに、
ママがのんびりでね、笑」だそうです。

そして、6年生になって、故中島和彦先生に特別に「幻想即興曲」という曲をレッスンしていただいた時のこと。

「君はピアニストになりなさい」

と突如言われました。

これには、私のピアノの先生も、母もびっくりしたそうです。

なんで中島先生は、
たいしてピアノが上手く弾けない私に、
「ピアニストになりなさい」
なんておっしゃったんだろう…。

という疑問は、この後、音大に行って自分の実力を思い知ることになった時に、何度も何度も私の頭を悩まし続けました。

この先生の言葉をきっかけに、母は私を音大に行かせることを前向きに考え始めてくれました。

【コラム】受け継がれるショパンの「幻想即興曲」

上記の出来事の際に弾いた、ショパンの「幻想即興曲」。
私の生徒さんも、同じく小6で弾いている子が続出しています、笑。

私がピアノの道を歩むきっかけとなった、思い入れの深い曲。
生徒さんも受け継いでくれて嬉しいです。

コロナウィルスで発表会が開催できなかったので。
お教室で「卒業演奏会」を開きました。
詳しい記事はこちら

存在感を消し続けた中学・高校時代

勉強も出来て、リーダーシップも発揮して、自分の意見もはっきり言えて

と、一見のびのびと、何の苦労もなく過ごしているように見えた小学校時代ですが。

実は、本当の友達といえる子がいませんでした。
何だか「話があわない」のです。

クラスメイトの子たちからも、
「西山さんに言ってもわかんないだろうから…」
のというような、一線を引かれている感じがありました。
(テレビもあまり見ない、アイドルや流行の歌も知らない状態だったので仕方ないのですが)

なので、学校の「中休み」や「昼休み」はいつも恐怖でした。

平気な顔をして一人で時間を過ごす勇気は持ち合わせていませんでしたから、次の休み時間は誰と一緒にいさせてもらおうか…と毎回びくびくおびえながら過ごしていました。

「友達がいない」という劣等感にずっと苦しんでいたわけです。
(いじめられていたわけではありません。)

そんなわけで、地元の中学校に進学することにとんでもなく不安を覚えていた私は、母の
「中学受験する?」
の問いかけに迷わず、「受験したい!」と答えました。

【コラム】登校拒否は、当たり前。と考える

大事なお子さんが、突然「学校に行きたくない」と言いだしたら…。
あなたはどのように対応しますか?

さぼり?甘え?

時にはそんなこともあるかもしれませんね。(私もさぼるの大好きです)

でも、その理由が、
「先生が自分のことを理解してくれない」
「クラスメイトとの折り合いが悪い。(いじめられている)」
「周りにかなり無理して併せている」

のであれば、「学校へ行かない」という勇気を持つこともありだと私は考えています。
だって、思い出してみてください。
あなたが小学校高学年から高校生だった、あの頃のこと。

クラスメイトの多くは、良い精神状態だったとお世辞にも言えないのでは。想像しただけで私はぞっとします!(苦笑)

思春期真っ只中、自分を模索する過程で、自分自身にも、周りの人や環境にも腹を立て、行き場を失ったモヤモヤを抱えていましたよね。
親や先生や、自分より弱い立場のクラスメイト、もしくは兄弟にぶつけた経験、ひとつやふたつ、いやそれ以上あると思います。(私はありますよ~。そんなに良い子でもありませんでしたので)

もしかしたら、ターゲットとなって虐められて苦しかった嫌な思い出もあるかもしれません。(これも私もあります)

社会にもまれて、自分の思い通りにいかない中で、何とか自分らしく生きていく

これも生き抜く上でのひとつの選択肢ですが、正直苦しくないですか?自分という軸が崩壊し、苦しくてたまらないような関係ならば、自分を取り戻すまで、しばらくの間かかわりを断つというのもありだと思います。

今の時代、本人が本気になれば、「いつでもどこでも何でも」学べる環境が十分に整っていますから。

「我慢する」「無理して周りに合わせる」「自分を押し殺す」
これらはもう、しなくてよい世の中の流れにきています。

“私は私の為に、「学校」という環境ではない、他の学びの場を探す”

そんな生き方も素敵ですね。


さて、無事に希望していた中学校に受かり、進学した私は、あることに気が付きました。

それは…
“もしやこの学校、私と同じような、地元の小学校になじめなかった子が集まってきてる??”

ということ。

だから経験上、私は、中学受験をしてもしなくても、その子が楽しく良い学校生活を送れるのならばどちらでも良いと思っています。

どちらの選択が良いのか、実のところ本人が一番よくわかっているものです。親の希望で決めるものではない、というのが私の考えです。

さて、中学・高校時代の私はこれまでとの態度とは一変、学校生活ではなるべく目立たず、いてもいなくてもあんまりわからないようにと、できるだけ自分を押し込めてひっそりと過ごしました。

みんな過去の私を知らないから、これまでとは違う、おとなしい自分を演じるのも可能だと思ったからです。

今思えば、多感なこの時期を乗り切り、自分の身を守るために必要だと前もって分かっていたのかもしれません。

ピアノがあったから、自分を信じれた

そんな風に、本来の自分とは違う自分を演じ続けてストレスがなかったのかというと…。

そこまで感じませんでした。

もちろん、多少はありましたよ。お年頃ですから。でも、他の子たちに比べると圧倒的に少ないと思います。

その理由は。

私にはピアノがある‼

と思っていたから。

・モヤモヤしているときはピアノを弾く。
・嬉しい時もピアノを弾く。
・親や先生、クラスメイト、自分自身に腹が立ったら、ピアノに思い切り怒りをぶつける。
・当時好きでたまらなかった男の子のことを想いながら、面と向かってアピールできない行き場のない気持ちをピアノを弾いて解消する。
・勉強、勉強で気が狂いそうな時も、ピアノをがむしゃらに弾く。

とにかく、ピアノは「お悩みなんでもカウンセラー」のような存在でした。
しかも無料。ほんと、なんでも受け止めてくれる素晴らしい分身です。

思いっきり弾いたあとは、心も軽く、スッキリ♪
口では言えない心の中を、音として全て吐き出させてくれます。

生徒さんを見ていても、「ストレス発散になってるな」と感じることがよくあります。

そして、ピアノの先生にもよく、
「たくさん恋をして、失恋もして、悔しい思い、嫌な思いもいっぱいして人生経験を積みなさい。そしたらもっと魅力的な味のある演奏ができるようになるから」と言われ続けていました。

なので、「わたしにはピアノがある」「ピアノがあるからもっと魅力的な人になれる 」と自己肯定感をピアノで育てていたのかもしれません。

そもそも、自己肯定感には「ある」「ない」はありません。
自己肯定感がない状態にあるから、「あるない」という問題が生じてしまっているんです。

と、さもよく分かっているかのように書きましたが、実は私もまだしっかりこのことが腑に落とせていません。本当の自分を知る探求はまだまだ続きます…。

私って…才能ないのかも。
人生初の挫折。
そして、もがき苦しんだ音楽大学時代

井の中の蛙、大海を知らず

チャンスは1回、1校だけ!
と条件付きですが、音楽大学を受験することを両親に許してもらった私は

それはもう、死ぬ気で練習しました

入試直前は、一日8時間以上、ピアノに噛り付いて弾いていました。
なにせ、失敗したら後がないですから。

そして、その努力の甲斐あってなんとか無事、東京音楽大学ピアノ科に合格。

順風満帆なピアノ人生が待っていると意気揚々だった私に、突如訪れた辛すぎる現実とは。。。

周りとのレベルが違いすぎる……。

東京の大学って、当然ながら、全国から特に優秀な学生が集まってくるんですよね。当時、東京音楽大学のピアノ科は、芸大の次に入るのが難しいと言われていました。なので、学生のレベルも粒ぞろいだったのです。

同じ門下生(先生が同じ学生の集まり。ゼミみたいな感じです)の演奏を初めて聴いた時、

「私、来るところを絶対に間違えた…」

と愕然としました。レベルの差が歴然としていたからです。
これまで自分はピアノの才能がある、と信じて疑わなかった私は、そんな自分が心底恥ずかしくなりました。ピンキリという言葉がありますが、

私は間違いなく“「キリ‼」” でした。

“キリ”な自分を意識しながら、ド緊張で演奏した初めての大学の発表会。

教わり方がわからない。言われた通りに弾くってどうやるの??

これまでの私は、

・自分の感じた通りに好きなように弾く
・でも、どのように体を使ったらどのような音が出るのか

について、ほとんど全く教わってきていませんでした。
だから、1日8時間の練習も、

“指のこの筋肉をしっかり使って、ここに力を入れてこの角度で弾いたら自分の欲しい音が出るかもしれない”

と、乏しい経験と知識、勘を頼りに、日々研究を重ねていたわけです。

でも大学に入ってから、自己流の弾き方ではなく、教授クラスの先生に基礎からみっちりしごかれました。

みっちりしごかれたのは良いのですが、その前に問題が発生。

言われた通りに、
先生のお手本通りに、

再現できないっ!!

という、初歩的な壁にぶつかりました。
もともと、「自分で何とかする」のが好き(得意)なタイプなのです。

人に言われた通りに「まねをする」のが

非常に苦手

なのです。

そこのところがよく自分でも分かっていなかったですし、ましてやピアノなんてもともと「先生の見よう見まねで上達する」芸事ですから、先生に「出来損ない」の烙印を押されても致し方ないですね。

とにかく、とことん先生と馬が合わない、可愛がってもらえない自分が嫌になり、躍起になって1日8時間~10時間、空き時間はほとんどすべて練習に費やしていました。

でも、練習してもしても、哀しいかな、全く上達しませんでした。


「練習するのやめて遊びなさい!」
の一言で人生が変わった

恐らく、大学の恩師からすると、わたしは

いうことをきかない、でも上手くなりたい気持ちだけは人一倍持っている、クソ真面目な困った問題児

だったようです。
だから、先生からするとクビにしたいけれどクビにできない(真面目にレッスンには来て練習してくるから)ので、かなりのストレスがたまっていたかと思われます。

そしてついに、ある日のレッスンで。

「どうせあなたはそんなに練習したってうまくならないんだから、練習するのやめて遊んだら??」

と言われました。

そのうえ、「偏屈」だの、「クソ真面目」だの、「だから彼氏もできないのよ」だの、ま~いろいろ言われました。
→レッスン後、トイレに駆け込んで「このくそばばあぁーっ!!」と連呼し泣き叫んでくやしさを発散する始末、笑。

余談ですが、今思えば頑固な私には、このくらいキツい一言がないと、これまでの習慣を変えることはできなかったと思います。先生もそれをよくご存じだったのかもしれません。先生には本当に感謝です。

そうやってムカムカした気持ちを一気に吐き出してみたら、
“いや、先生の言うことにも一理あるかも?”
と思いまして。

先生の言う通り、本当に練習しても練習しても一向に上手くならなかったのです。朝8時には学校に着き、練習室の予約を取れるだけ取って、授業やレッスンの合間に練習、夜も閉校時間ぎりぎりまで残って弾いていました。

そこまで頑張っても身にならないなら、一旦遊んでみるのもいいな。(先生に「遊んでいい」と許可までもらったし!)→単純(笑)

そう考え方をシフトして、

遊びまくりました(笑)

どれだけはじけたか、少しでも伝われば。
みなさん、勝手に公開してごめんなさい(笑)

・風変わりなアルバイトを沢山経験し
・サークルに入って、個性の強すぎるメンバーと音楽について語り合ったり、恋バナの相談に乗ったり、ご飯食べに行ったり、遊んだり…
・東大の合唱部に入部し、ここでもキャラの濃い素敵な人たちと交流したり
・1型糖尿病の子どもたちのためのボランティアに参加して、2週間くらい電波の届かないような山に籠ってキャンプをしたり

と、それまでの人生の中で一番いろんな人と積極的に関わったように思います。

そうやって遊び回っていたある日のレッスンで、先生に、

「あなた、最近ピアノ良くなったじゃない。」

と、大学に入ってから一番練習していない状態でレッスンに臨んで、初めて褒められました。

結局、練習は
・いかに少ない時間で、効率よく練習する
・いかに沢山人生経験を積んで、演奏に反映させる

なんですね。


【コラム】最短最速の練習法

こんな訳で、生徒さんには私と同じように無駄な時間と労力をかけてもらいたくないため、「最短最速で上手くなる練習法」をお伝えしています。

とは言っても、結局「急がば回れ」が最強です。


《丁寧に、ゆっくり、ひとつひとつの音と真っ向から向き合う》

この姿勢を貫けば、必ず自分も、周りの人も心から満足し癒される音楽を奏でることができるようになりますよ。


小学校で音楽を教えるはずが・・・。
家庭科?えっ…?わたしが「算数」を教えるんですか??

大学を卒業してから、ピアノを教えながら、色々他のお仕事も経験しました。

・子どもの英会話教室のアシスタントマネージャー
・医療系専門学校や研修会社の事務
・大学の教授の秘書(先生とは今も仲良くしていただいています)
・デパートの総菜売り場の販売員

どの仕事も、自分の中でぱっとせず。

周りと比べて自分は大した能力がない、音大に行ったのは間違いだったのではないか?とか感じつつ、仕事を転々とする中で、他者と比較しながら少しづつ自分というものを見つめるようになりました。

ここではじめて、同僚に虐められる経験もし、自分と相手をそれぞれ冷静に客観視することも学びました。

結局、自分の人生に満足していれば、他人は気にならないものなんですよね。
人を虐めたくなるのは、自分が幸せではないからにすぎないと。
何かに不満を抱えているから、幸せそうに見える人を攻撃したくなるんですね。

自分自身の日々揺れ動く感情も、コントロールできなくなるときは決まってそうです。私って不幸だわー、人生損してばかりだわーと思うと、たちまち色んな人がうらやましくなってしまいます。



そして、数々の職種を経験した中でも
一番ピアノを教える上で、大きく私の意識改革の元となったのは、

小学校の専科教員

として働いたことです。

そもそも、大学を出た私は、「小学校で音楽を教えることができたら、家庭に経済的な余裕がある子もない子も、平等に高い音楽教育を受けさせてあげられる!」と夢を抱き、働きながら寝る間も惜しんでせっせと小学校の教員免許を通信教育で学んで取り始めました。

そしてついに!福岡でも「専科教員制度」が試験的に導入されることになり、晴れて小学校で音楽を教えることができました。

が、しかし…。
(人生そんなに甘くない)

派遣された1校目。
4年生 音楽

→「音痴で救いようがない学校」とレッテルを張られていた子どもたちの歌声を変え、区の音楽会では、他の学校の先生たちをびっくり仰天させました。

5、6年生は…音楽じゃなくて

家庭科?ですか…?

母とふたりで手作りしました。
音楽と家庭科の融合です♪

→初回の学校は、生活が非常に厳しい家庭の子も多く、生活に密着した「家庭科」という教科を教えることで、子どもたちの「当たり前」と私の「当たり前」のギャップをひしひしと感じる出来事がたくさんありました。普通に音楽だけを教えるより、子どもたちから逆に数えきれないほどの多くの大事なことを教えてもらいました。

2校目
4、5、6年生の音楽

(ようやく使命を全うできました。やりたかったことをやり尽くした感じ。)

3校目
6年生の
、なんと…

さ…算数…????

教育委員会から通知を受けた時は、頭をがつんと金づちで殴られたかのような衝撃でした。


算数、大嫌いなのに…。一体私に何をどう教えろと???


ですが、結論として自分にとって「とても良かった」と思っています。

確かに私は「音楽のプロ」なので、音楽を教えることが子どもたちにとって一番メリットが高いのですが、

音楽は私の得意分野なので、そうではない人たちが

「何がわからないのか」
「どうしてわからないのか」
「何につまづいているのか」
「どうしてできないのか」
「どんな気持ちでピアノに向かっているのか」


が全く理解できていなかったのです。

なので、自分のピアノの生徒さんに対しても、
「何で何度言ってもできないの??」
と上から目線で言って叱ったこと、数知れず。

今考えると、ダメダメ教師すぎて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

その反面、特に算数は “私が”
「わからないのが当たり前」
「苦手なのが当たり前」

なところからのスタートなので、

どうやったら分かりやすくなるか
どんな風にアプローチしたら楽しく学べるか


変な話、「サルでもわかる!」くらいに落とし込む必要性を強く感じていました。実際にそれくらいに分かりやすく授業できたかというと疑問ですが、でも、そのスタンスで子どもたちと接し、教材づくりや授業に取り組むという経験が、当時の私だけでなく、その後の自分にとって貴重なものとなったのは間違いありません。

苦手な算数を教える経験を通して、これまで「出来て当たり前」な視点から生徒さんにピアノを教えていた自分に気づくことができました。

自分の常識はみんなの常識ではない。
幸せの価値観も人それぞれ。
「ふつう」と思っていることも人それぞれ。


「できなくて当たり前」なところを出発点として、生徒さんの今いるところまで降りて行って、同じステージから必要なサポートをすることの重要性を学ぶ貴重な経験をさせてもらえたのだと、心から感謝しています。

子どもたちからもらったお手紙
読み返すたびに、もっと良い先生になろう!とやる気が出てきます。

【コラム】レッスンは、普段の生活の一コマにたとえてわかりやすく♬

自分で言うのもなんですが。
私のたとえ話はかなり分かりやすいと好評です^^

学校で働いたことがあるおかげで、生徒さんの普段の学校生活にピアノの弾き方を結び付けて話したり、

あちこちで働いたおかげで、大人の方のお仕事の一コマにピアノも結び付けたり

と、レッスン中にいろいろアイデアが降りてきます。

人生に一切無駄なし。これも私の信条です。


音楽はみんなのもの!
障がい者も高齢者も子どもたちも、みんなが気兼ねなく楽しめるコンサートをしたい!!

障がいがあるから、演奏中に大声出して他の方に迷惑をかけてしまうので、コンサートに行きたくても行けないんです。。

まだ子どもが小さくて…。生の音楽を聴かせてあげたいけれど途中で泣き出したらどうしよう・・・

音楽は大好きだけど、車いすだから無理。歳をとってからは演奏会に行けなくなって寂しい

というような悩みを抱えているがために、生の音楽に触れる機会が与えられない多くの障がい者や高齢者、乳幼児を抱えるお母さんたちがいることにふと疑問を感じた私と、同じくずっと障害を持った子どもたちに音楽を教えてきた相方Mamiちゃんとで、

「無いものは、自分たちの手で創ればいい!!」

という思いのもと、演奏ボランティア団体を創設し、7年間におよび年2回、無料でホールでのバリアフリーコンサートを自主開催しました。

ホームページもチラシもパンフレットも全て手作り。
PCも絵も苦手ですが、頑張りました。

毎回、無茶ぶりが多かったにもかかわらず、一生懸命にお手伝いをしてくださったスタッフの方も皆「完全ボランティア」。聴きに来てくださる方の「コンサートに行きたい!」という強い願いをよくご存じだったので、お客さんに充分楽しんでもらえるようにと本当に影でしっかりと支えてくださいました。

・視覚障がい者の方のために、音楽に必ずお話や解説を付けたり
・聴覚障がい者の方のためには、手話やスライド、曲の様子が伝わるパンフレットを配布したり
・車いすの方のために、前方の席をバリアフリーにしたり
・集中して聴いてもらえるように、30分間の3部構成にしたり
・休憩中も楽しめるようにイベントを開催したり

と、恐らく、当時は特に、ここまで手厚く工夫をこらしたコンサートは日本全国探してもなかなかなかったのでは?と思います。

JcomのTV番組や、新聞にも掲載していただきました。

また、友人のバレリーナ、由香里先生のお教室の生徒さんたちとのバレエとピアノの生演奏のコラボステージにも挑戦しました。
→コンサートの模様はこちら。(由香里先生のお教室にジャンプします)

【参考】Piano Duo Yoko & Mami -you and me-のホームページはこちら


亡き母が教えてくれたこと

ある日のお昼休み。母から1本の電話がかかってきました。

「お母さん、癌が見つかったから。」

想像もしていなかった衝撃の一言に気が動転し、目の前が真っ暗になりました。母とはとても仲が良く、ずっと一緒に幸せに暮らしていたので、「もしも」のことが頭から離れず、自分ひとりになった時のその後の人生に、恐怖と不安を隠せませんでした。

癌の告知をされたその日の帰り道、病院へ急ぐわたしの後ろから、同僚の男の先生が追いかけてきて車に乗せてくれました。
「お前が泣いたらいかん。お母さんを支えるのはお前だから。」と一言。
その先生の言葉通り、私は母が亡くなるその時まで、母の前では一切泣きませんでした。

相談出来ない、感情のはけ口がない。
自宅と職場と病院をひたすら行き来する毎日に心も身体もへとへとになり、「もうダメ、死にたい」と思ったことも。時に母にきつく当たってしまう自分にも嫌悪感が募りました。

そして。大好きな母が亡くなった翌朝。
眩しすぎるほど真っ青な雲一つない空に、私の心は複雑でした。

母の死=自分の生きがい、生きる指針の喪失と思い、恐怖感でいっぱいでしたが、母が亡くなっても毎日の流れは変わらないことにすぐ気づきました。

最初の頃は、何かをする度に、「母ならどうするだろう、母ならなんて言うだろう」と考えることも多く、それが「私はひとりではない」「いつも母と一緒だ」という力になっていましたが、徐々に「自分はどうする」「自分はどう考える」の思考と行動にシフトしていきました。

母と一緒に生活していれば絶対に考えもつかない、絶対にやらない本当の自分らしい言動がどんどん増えていきました。

人の死は突然やってくる。
だから、いつ死んでも後悔しないように、1日1日を大切に一生懸命生きよう。
私の生きる意味は何なんだろう?
何をやり遂げるために生まれてきたの?

母の死後、毎日毎日繰り返し自分に問いかけています。

“あなたにはピアノがある。
あなたがピアノを弾くことで、
あなたのピアノを聴いてくれている人が幸せになる。
そして、その1人の人が幸せになることで、その人の家族も友達も幸せになる。

そうやってあなたは、ピアノで沢山の人を幸せにできる力があるのよ。
だから、弾き続けなさい。教え続けなさい。

お母さんは、あなたのピアノの「一番のファン」だからね。”


病気は、「氣」が病んでいる証拠。自分らしく生きることで、克服できる

母の死後、やりたいこと、やれることを手あたり次第、次々に実現させていきました。コンサート、教室の発表会、オペラの伴奏…。

そうこうしているうちに、今度は父が癌になりました。
でも、父はとても変わっているんです。
「俺は、癌と共存する!」と宣言。

「癌と闘ったらいかん。仲良くせないかん」とまあ、こんな感じでして。

そうこうするうち、今度はなんと、私が難病になりました。

主治医に「治らない」と言われショックを受けましたが、父は「絶対に治る!」と言い切り、ネット等でも治療法や病気について調べてくれたり、家事を手伝ってくれたりとサポートしてくれました。

そして不思議なことに、本当に「治って」しまいました。忙しくしすぎて、自分と肉体と魂が分離していたんですね。

それで、身体が悲鳴をあげて、「病気」というサインをだすことで「もう限界だから休んでちょうだい!」と気づかせてくれたにちがいありません。

病気をしたことで、仕事ができることに心から感謝でき、レッスンの在り方や視点ががらりと変わりました。

自分自身や身の回りで起こる出来事は、必ず原因は自分にあります。病気もそのひとつ。病気になることで、「我慢してるよ~。頑張りすぎてるよ~。ねえ気づいてよ!」とサインを送ってくれています。

いかに自分の心と身体の声に耳を傾けることが大切か、身に染みて分かりました。

音と対峙する。音の息遣いを感じる。

音は生きている。そのことに気づいたきっかけは、シンギングボウル

楽器として演奏するだけでなく、身体の周りに置いたり、実際に身体の上に乗せて鳴らすことで、身体の不調を改善したり、心のトラウマ、不眠の解消など様々な治療を行うことができます。

シンギングボウルとは、その名のとおり「歌う器」のこと。

スティックを用いて縁をたたいたりこすったりして音を出しますが、その音色は味わい深く独特の世界を持っています。(同時にいくつもの音が互いに振動し合う倍音の響きを味わうことができる楽器です)

ちょっとしたコツはいりますが、慣れれば音を鳴らすのにピアノほどの技術は必要ありません。

ただし、シンプルだからこそ「どのような心や精神、身体の状態で、何を感じ、何を意図してボウルを鳴らすのか」ということが重要であり、それがそのまま音に反映され、微細な振動の違いがヒーリングの効果にダイレクトに影響するというシビアさを持っています。

音を活かすも殺すも自分次第。
音は生きているのだと、この楽器ほど音の持つ壮大な生命力を深いところで実感できたのは、生まれて初めてでした。

シンギングボウルと出会ってから、音の核を捉え、そのエネルギーの行方をたどったり、いくつもの音色の混ざり合った音を深く聴き分けたりする力が養われたため、ピアノの音の聴き方が劇的に変化しました。また、音や演奏に対する真摯な姿勢やレッスンでの気づきも大きく変わりました。

音の持つ神秘さに惹かれ、音や身体、心、そして宇宙のなりたちについて興味を持ち学びはじめたのもこれがきっかけです。

何のために音を奏でるのか。